(゚、゚トソンフラジールのようです
- 241 名も無きAAのようです 2013/02/09(土) 23:56:39 ID:2C/3M8TA0
- 10.呼ばない
最寄りの駅から電車で十数分ほどの場所にある、都会。
今なお再開発を繰り返しているその場所は、休日ともなればどこからともなくやって来る人々で溢れかえる。
私には休みの日にまでわざわざ群衆に紛れようとする、その心があまり理解出来ない。
にも関わらず、私は今、駅のコンコースに聳える柱を背にして立ち尽くしている。
噎せ返るような息苦しさ。本当に酸素が不足しているのではないだろうか。
地球温暖化を叫ぶ人々は、実際のところ人混みが嫌で仕方なかったのではないだろうか。
そんな風に勘繰りたくなるほど、私にとって都会の空間は異質で、不気味だ。
時々、大学のキャンパス内でも同じようなことを思う。
しかしそこにいるのは大抵が私と同年代の若者達である。だから私は疎外感を覚えない。
目の前に蠢いている群衆は文字通り雑多、である。故にどうしてもその中へ溶け込めない。
つまり、私は単に人混みが嫌いなのだ。
(゚、゚トソン「……」
その私が傍観者のようにして立ち竦み、行き交う数多の通行人とすれ違う。
そこに浮かび上がる喜怒哀楽に……私はほんの少しだけ、安堵する。
表情の存在が嬉しく思えるのだ。それは確かに人間らしさの証明であり、共同体の証明でもあろう。
しかしこれが全くの他人同士の集まり――例えば朝の満員電車――ともなれば、目も当てられない。
並び立っているのは無数の無表情であり、それぞれが新聞や、
携帯を使ってそれぞれの世界に没頭している。感情を失った歪な機械の塊だ……。
無論、一人一人が自在に感情表現していても、それはそれで怖ろしいと分かってはいるが。
- 242 名も無きAAのようです 2013/02/09(土) 23:58:21 ID:2C/3M8TA0
- 時々、私は追放される。
他の誰でもなく、私自身によって追放され、自分の部屋にさえ居場所を失うのだ。
それが起きるのは大抵憂鬱が頂点に達したり極端な自己嫌悪に陥った場合で、
自分の存在自体を許容したくなくなるのだ。だから私は何の意味も無くこんな場所に立っている。
止め処なく流れる群衆が、私を流してくれるような、そんな淡い期待すらをも抱いて。
内藤氏と会ってから既に一週間。私は結局、彼から逃走した。
試験には全て出席した。身に覚えの無い失敗をしていない限りは単位取得に問題無いだろう。
エントリーシートの提出も、予定している分は済ませた。
一つ、書類選考通過の知らせが届いた。面接への案内だ。これにはまだ日がある。
そのため、現時点の私には何も存在していない。
あれ以来、内藤氏には連絡を取っていない。自らを恥じているためか、彼を怖れているからか、
理由は判然としないが、とにかく彼と連絡を取るのは躊躇われた。
そもそも、連絡を取る方法は電話しかないのだ。私は会話せねばならない。
私は、自分自身を抑えられそうにない。
『浪漫S区』には近寄ってもいないし、携帯が震える度に不安が積み重なっていく。
いったいどうすればいいのだろう。どうしようもない。だから私は追放されている。
柱を背にして携帯など弄るフリをして、ただ漫然とやり過ごしている。
イヤホンから聞こえてくる音楽は、いつの間にやらノイズほどの存在感も失ってしまっていた。
私は大嫌いな人混みの中に居ることで、私自身を虐げ、そして逃げ込んでいるのだ。
現実から、内藤氏から、薄汚れた自意識から……。
だからこそ、私は不意に肩を叩かれ、必要以上の大声をあげてしまったのかもしれない。
- 243 名も無きAAのようです 2013/02/09(土) 23:59:32 ID:2C/3M8TA0
- / ,' 3「……」
イヤホンを付けているせいで彼の言葉はまるで聞こえなかった。
しかしその姿には見覚えがあった。当然だ、約三ヶ月前まで、私は彼の個人書店で働いていたのだから。
私は慌ててイヤホンをはずし、そのせいで服のあちこちに引っ掛けたりしながら、軽く会釈をした。
(゚、゚トソン「こんにちは……。店長」
/ ,' 3「ボーッとしとったな」
店長……荒巻氏は、私に向かって無骨な口調でそう告げた。
/ ,' 3「こんな所でそんな真似しとったら、財布なんぞすぐスられるぞ」
(゚、゚トソン「あ、はい。すいません……」
釈然としない謝罪をしながら、私はどうしても思い出してしまう。
そもそも、店長と出会った一回生の春、アルバイト用の履歴書と私を交互に睨む店長は、
どうも第一印象からして私に好感を抱いていなかったらしい。だが私は採用された。
理由はよく分からなかったが、それからの日々も、店長との関係は決して良好ではなかった。
店長は無口な人であり、滅多にレジに立つことも無く奥に引っ込んでいた。
たまに本の入荷や返本について奥さん――お婆さんと話していたりもしたが、
その度に隣にいた私は細々とした注意を受け続けた。
ただし特段に説教をされることはなく、不始末を私に負わせるようなことはしなかった。
その割に私はバイトを辞めさせられるようなこともなく、何となく曇った関係を継続していたのだ。
私が良くしてもらっていたのはお婆さんだった。
店長について最も印象的だったのは採用後にこう言われたことだろう。
/ ,' 3「儂のことは店長と呼べ。名前なんぞで呼ぶんじゃない」
- 244 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:01:19 ID:V8ZUjCnc0
- その店長が私の肩を叩き、目の前に立っている。
これはどうしたことだろう。偶然出会ったとしても、店長は私など無視しそうなものだが。
……そうだ、私は最も気になっていることを訊くべきではないだろうか。
即ち、お婆さんの死が真実なのかどうか、について。
しかしいざ口にするとなるとどうにも躊躇われる。所詮部外者の私が口にすべきなのか。
/ ,' 3「都村……だったな」
(゚、゚トソン「は、はい……」
/ ,' 3「時間、あるか」
(゚、゚トソン「え?」
店長は相変わらず顔中に皺を寄せて、まるで睨むようにして私を見つめている。
随分と腰が曲がっているせいか背丈の違いはそれほど感じられないが、
背筋を伸ばせばそれなりに大柄なのでは無いだろうか。
何より、線の細かったお婆さんとは対照的に肩幅も広く太い指をしていたから、齢の割に頑健に見える。
/ ,' 3「暇があったら、そこの百貨店の珈琲屋にでも行かんか」
私は、店長の表情が読めない。彼が何を考えて私を誘っているのかも、理解出来ない。
ただ、私には彼の誘いを断る合理的な理由が無かった。
と、言うよりは別に行こうが行くまいがどっちでもいいのだ。
ならば、別に目の前の老爺の期待を無碍にする必要もあるまい。
(゚、゚トソン「……はい。大丈夫です」
そう応えた私に、店長はふん、と鼻を鳴らしてさっさと歩き出した。
- 245 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:03:11 ID:V8ZUjCnc0
- 彼によって案内された喫茶店は、少なくとも『浪漫S区』よりは遙かに立派だった。
流石は百貨店、ということなのだろう。こんな場所には普段ならおいそれと近付かない。
客層も、どことなく裕福に見える。コーヒーの値段も、流石にただ事ではない。
自分などがこんな場所にいていいのだろうかと恐縮しながら、私は店長に続いて席へ向かう。
/ ,' 3「ほれ」
(゚、゚トソン「え」
/ ,' 3「奥、行け」
そう言われて、忙しなく奥側のソファに腰を下ろす。
注文を訊きにきた店員に、店長はホットコーヒーを求め、私もそれに倣った。
静かにさざめいている客を見渡し、店長はいかにも老人然とした咳払いを放った。
/ ,' 3「ここの、地下にな」
/ ,' 3「旨い揚げ物を売っとる惣菜屋がある」
(゚、゚トソン「……はい」
/ ,' 3「今日はそれを買いに来た……そしたら、あんたがおった」
- 246 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:04:44 ID:V8ZUjCnc0
- (゚、゚トソン「だから私に声をかけた……ですか?」
/ ,' 3「ハナからそのつもりやったわけじゃない……ただ」
/ ,' 3「どうも、死にそうな顔をしとったからな」
運ばれてきたコーヒーを啜りながら店長は何事か案じているように目を細めた。
死にそうな顔……という表現は決して的を射たものではないが、
少なくとも、そう見られてもおかしくない顔ではあっただろう。
他人の無表情に怯える私の顔にこそ、何一つとして感情が宿っていなかったのだから。
/ ,' 3「まあ……もっとも、あんたは最初からそんな面しとったがな。
儂は、最近の若者を一括りにして活力がない、なぞと喝破したか無い」
/ ,' 3「しかしあんたには言える。あんたには、活力が無かった」
(゚、゚トソン「はい……」
/ ,' 3「そのあんたが、益々気迫の無い面、晒しとったからな。
せっかくの美人が、台無しやないか……」
私はようやく、店長が店長なりに私を激励しようとしてくれているのだと悟った。
- 247 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:05:46 ID:V8ZUjCnc0
- とは言え、店長はやはり他人を励ますのが苦手らしく、私に上手く言葉を吐けないでいるらしかった。
そんな気遣いを店長がしてくれるとは思ってもみなかった。再会の形としては、殆ど最高であるといえる。
(゚、゚トソン「……すいません、ありがとうございます」
/ ,' 3「……」
私の感謝に店長は少し鼻を動かした。慣れない励ましに返された慣れない謝意に戸惑っているのだろうか。
どちらかといえば店長は根性論を語るようなタイプの人間に見えた。
だから私のように『活力の無い若者』を自分の書店で働かせ、
なおかつ辞めた後でも私を励まそうと尽力する……その人間性が非常に奇妙だ。
/ ,' 3「……言葉は、文字通りに取らん方がええ」
沈黙を貫いていた店長は、ようやく苦しげな言葉を出した。
/ ,' 3「儂があんたに話しかけたのはそれだけが理由やない」
/ ,' 3「ただ、伝えといた方がええと思ったからな」
- 248 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:07:04 ID:V8ZUjCnc0
- (゚、゚トソン「伝えた、方が?」
そう反復しながらも、私は店長の意図を掴み始めている。
それは書店を閉めたことであり、お婆さんのことであるのだろう。
そして彼が口にしたことで、私の中に僅かながら残っていた否定の意思が完全に消え去ってしまった。
/ ,' 3「店、畳んだのは知ってるか」
(゚、゚トソン「……はい、その、見ました。張り紙を……」
/ ,' 3「ああ……それでな」
/ ,' 3「婆さんも、逝った。暮れの辺りのことやが」
時々、私には世の中がどうしてこんなにも絶望的に作られているのかわからなくなる。
お婆さんの生死はたった今、店長が口にするまで、その両方の可能性が頭の中で宙ぶらりんだったのだ。
それが、悪いほうで確定してしまった。噂通り、お婆さんは、亡くなったのだ。
(゚、゚トソン「そう……なんですね」
/ ,' 3「あんたが思とるほど悲観するような話でもない。大往生やった」
/ ,' 3「婆さん、五年ほど前に胃をヤッて半分以上切り取ったんや。
それからは、いつ死んでもおかしか無い、と医者に言われ続けとった」
/ ,' 3「よう、保ったよ」
- 249 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:07:59 ID:V8ZUjCnc0
- 初耳だった。私などに話す義理はないし、当然かもしれないが、それでも相当に衝撃的だった。
確かに時々お婆さんが店にいないときもあったし、臨時休業の数もそこそこ多かった気もするが、
それでも、それがお婆さんの不調と関係しているなどとは少しも思っていなかったのだ。
/ ,' 3「儂なんかよりよっぽど質素に生きとったんやがなあ……分からんものや。
まあでも婆さんは親父さんもお袋さんも癌で逝ってもうてたから……遺伝なんかもな」
(゚、゚トソン「その……お悔やみ……申し上げます」
その定型句の用法が正しいのかどうかさえいまいち分からない。
ただ私は遣り切れないままに言葉を口にした。言いようの無い言葉を含ませるために。
私は既に祖父母を失っている。しかしそれはまだ私が幼かった頃の話だ。
曾祖父母については私が生まれる前になくなっていたから、結局どちらもよく分からない。
お婆さんの死は、間接的ながらも初めて私に死の実感を与えた経験ということになる。
/ ,' 3「……ふん、どうも、おかしな話やな」
/ ,' 3「偶然会うたあんたに婆さんのことを話しても、詮方ないんやが」
(゚、゚トソン「……」
/ ,' 3「ただ、あんたが辞めてたちまち倒れた婆さんが、病院でよう話してたんや。
都村さんが、都村さんが、てな。嬉しそうに、そら本当に嬉しそうにな」
- 250 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:09:17 ID:V8ZUjCnc0
- (゚、゚トソン「私……ですか?」
私は半ば愕然とした表情で店長に問い返した。
/ ,' 3「他に誰がおるかね。ウチで雇とった『都村』はあんただけや」
(゚、゚トソン「……」
/ ,' 3「そも、儂が本屋をやりだしたのは、ほんの数年前からでな。
婆さんがさっきのあんたみたいに死にそうな顔しとったから。
仕方なしに婆さんの好きな本を扱う店屋を始めることにした」
/ ,' 3「儲けなど頭から考えとらんかったよ。今時分に本屋なぞ、流行らん。儲かるわけもない。
それでも多少身銭を切っても腹が痛まん程度には、金があったからな……」
(゚、゚トソン「そこまでして、お婆さんのために……?」
/ ,' 3「儂も仕事を辞めて道楽に耽るのに飽いていたしな。
まあ、金回りを考えん商売なぞ道楽と変わらんかったが」
店長はあくまでも淡々と話し続けていた。
昔を懐かしむわけでもなく、お婆さんの死を悲しむわけでもなく、想い出を惜しむこともなく。
ただ淡々と、私に向かって過去を述べていた。
- 251 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:10:00 ID:V8ZUjCnc0
- / ,' 3「本屋言うのは結構な肉体労働やったからな。儂でも厳しい時は息子に手伝ってもらったりもした。
が、息子には息子で他にちゃんと仕事をせなあかん。やからバイトでも雇おうか、となった。
出来れば芯の太い、根性のある連中がよかった。それが、儂の本音や」
(゚、゚トソン「……」
/ ,' 3「しかし結局雇ったんは都村トソンという、根性とは真逆を行く女を含めた数人やった。
儂からしたら不安でたまらん。何か客と面倒起こしてしまったら、
ただでさえ小さくなった婆さんの胃が益々縮んでしまう」
/ ,' 3「けど、婆さんに必要なのはフトい若者でなく、針金みたいな奴やと、思った」
(゚、゚トソン「それで、私を……?」
/ ,' 3「あんた、大丈夫やったか」
(゚、゚トソン「はい?」
/ ,' 3「腰とか……痛めんかったか」
(゚、゚トソン「は、だ、大丈夫です」
/ ,' 3「なら、ええが……」
- 252 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:11:19 ID:V8ZUjCnc0
- 店長にとって、書店を開くという行為はお婆さんのための一種のリハビリだったのかもしれない。
落ち込んでしまったお婆さんを元気にさせようとする、尽力の結果だったのだ。
故にその存在はお婆さんの不調から始まって、お婆さんの逝去によって幕を下ろした。
(゚、゚トソン「……あの、店長」
/ ,' 3「今の儂は店長でも何でもない」
(゚、゚トソン「……そのことについて、お聞きしたかったんです。
店長が私を採用したときに、名前では呼ぶなと仰ったではないですか。
私にとってはそれが一番印象的だったんです。何故、そう仰ったのか、と」
/ ,' 3「……」
(゚、゚トソン「勿論、マナーであると理由なら、それはそれで納得できるのですが」
店長は今までに無い渋面で私を睨めつけて、それから目を閉じて溜息をついた。
/ ,' 3「マナー、マナー……か。儂が働いておったころ、よくそんな言い訳を聞いたわ。
何でもかんでもマナーと名前をつければ通用すると思っている……。
あんた、ジジイに昔話をさせると長なるぞ。マナーの一言じゃ終わらん」
(゚、゚トソン「……大丈夫です」
- 253 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:12:17 ID:V8ZUjCnc0
- / ,' 3「……儂はな、ドカタやった」
(゚、゚トソン「どかた?」
/ ,' 3「建設業……あんたも職探ししとるんやろ?」
(゚、゚トソン「はい、まあ、一応は……」
/ ,' 3「したらまあ……いや、ドカタは止めとけ。あんたにゃ似合わん。
何より、業界全体が景気悪いからの……そもそもどこも人採らんやろうし」
/ ,' 3「しかし儂が中卒で働き出したころはそんなことは無かった。
穴掘って役所から金をふんだくる仕事が山のようにあった。
儂も毎日毎日駆り出されてはお天道さんの下で汗水流し続けた」
/ ,' 3「当時は、あんたが言うようなマナーなんてもんは無かった。
軍隊気質みたいなもんが残ってたのかもしれん。
とにかく上に従って右に左に、ぶっ倒れるまで動き続けるのが当たり前やった」
/ ,' 3「そうせな、仕事が追っつかんかった」
- 254 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:13:19 ID:V8ZUjCnc0
- / ,' 3「高度経済成長期、言うんはドカタにとっては天国やった。
彼方此方で道が出来、家が建ち、橋が架けられ、トンネルがぶち抜かれ、しとった。
おかげで儂が働いておった会社もデカなってな。笑いが止まらんかったようだ」
/ ,' 3「まあ儂は相変わらず現場の人間やったが……一応、野心みたいなもんはあった。
上の人間に従い続けるのはいい加減しんどなってたし、やがては独立でもしたろうか、と。
まあ、一端の若者の夢に過ぎんかった。が、努力はしたつもりや」
/ ,' 3「そん頃に……三十前ぐらいか。儂に見合いの話が来た。
あの頃は今みたいにのんびりしとらんかったからな。儂はええ加減結婚せえと発破をかけられとった。
何でも、相手も儂と同い年ぐらいの娘さん……まあ、言っちゃなんだが行き遅れ、やった」
/ ,' 3「それが、婆さんだ」
/ ,' 3「婆さんは……箱入り娘やった。ま、儂と違う人種なのは見てても分かったやろ。
最初、儂と相見えた婆さんは、随分と儂のことを怖がったらしい。
まあ、当時はやくざ者みたいな人相しとったからな、無理もないわ」
/ ,' 3「儂も儂で、そんな良家のお嬢さんみたいな人間をどう扱っていいか分からんかった。
それでも相手も自分も周りに急かされてたからな。何となく、断りきれんままに結婚する段になった」
/ ,' 3「なあ、あんた」
(゚、゚トソン「は。はい」
/ ,' 3「もし儂を店長ではなく、別の呼び方をするとしたら、何と呼ぶ?」
- 255 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:14:51 ID:V8ZUjCnc0
- (゚、゚トソン「……荒巻さん、ですかね」
/ ,' 3「やろうな」
店長は頷いてから、首を伸ばして遠くの方を眺める仕草をした。
それは、もしかしたら彼が初めて取った懐古の行動だったのかもしれない。
/ ,' 3「当然の話やが、婆さんは最初から荒巻という苗字ではなかった。
せやから結婚するまでの間、婆さんは儂を荒巻さん、と呼び続けた。
上品な娘さんやな、と思とったよ。が、それは結婚前の話だけやなかった」
/ ,' 3「結婚後も婆さんは儂を荒巻さんと呼び続けた。
儂は何度かおかしいと言うたが、それでも婆さんの口癖は直らんかった」
/ ,' 3「でもな、それはそれで、慣れてくると良く思えるものやったよ。
婆さんは婆さんの意思で荒巻さんと呼ぶ。それが、良かったのかもしれん。
……結婚して三年経ち、儂と婆さんの間に息子が生まれた」
/ ,' 3「その時、初めて儂への呼び名が『荒巻さん』から『お父さん』に変わった」
/ ,' 3「儂は何とも悲しかった。荒巻さん、はたぶん儂のことだろう、と思える。
が、『お父さん』は仰山いるから誰を指しとるのか分からんのではないか。
そんな、つまらん誇りのせいで儂は当時機嫌を損ねとった」
/ ,' 3「やが、それも結局は慣れに過ぎなかった」
- 256 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:16:01 ID:V8ZUjCnc0
- / ,' 3「五十手前ぐらいで、儂は独立を決心した。細々と金も溜め取ったからな。
息子も、高校生で、儂に言わせればもう立派な大人やった。やから博打しても構わんな、と」
/ ,' 3「婆さんは本のことはよう知っとるが建設のことはちんぷんかんぷんやった。
そも、社会に出た経験にも乏しかったからな。儂が打って出た博打のデカさも理解しとらんかった。
そろそろええ中年になってた婆さんは、お父さんのやりたいように、と言っただけやった」
/ ,' 3「……運が良かった」
/ ,' 3「頼んだ覚えも無いのに独立して間もなくバブルが来た。今んところ建設業界最期の大舞台や。
婆さんの実家がまとまった金を貸してくれたのも大きかった。
過去のツテで仕事をくれるところも有難かった……」
/ ,' 3「そうして、何とはなしに一つの会社が出来た。頭に儂がいる、会社がな」
(゚、゚トソン「じゃあ……店長は……その、社長さんだったんですね」
/ ,' 3「そういうと聞こえはええがな。実際は小さい一軒家みたいな事務所があるだけや。
それでもまあ、あんたの言うとおり、儂は社長、ということになった。
婆さんがな、たまにふざけて『社長さん』と呼んどったわ」
/ ,' 3「バブル崩壊後は地獄やった……銀行は金を貸してくれん、下請けしようにも仕事が回ってこん。
スーツの襟だけ正しても何の解決にもならんことがはっきりした。
ともかく、他人のことなんて考えず自社優先で死に物狂いで仕事をした」
/ ,' 3「当たり前の話ではあるけどな。が、そのために時には人の命も飛ぶ」
- 257 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:17:08 ID:V8ZUjCnc0
- / ,' 3「要らん話をしたな……そうやって還暦を迎えた頃に、孫が出来た。
儂が四の五の言って齷齪働いとる間に、息子がいつの間にか結婚して子供まで産まれとった」
/ ,' 3「改めて儂の呼び名が変わった。今度は『お爺さん』だ。もう、変わることも無いやろうと思った」
/ ,' 3「それから数年経って……儂は息子に社長の椅子を譲ることにした。
業界自体が景気のどん底まで落ち込んだ後やったし、それでも一応稼いでもいる。
息子も息子で余所の建設会社で経験をつんどったから、いけるやろう、と思った」
/ ,' 3「実際、今日も事務所は何とかやっていけてるようだ」
/ ,' 3「退職してみると……さて、やるべきことが無い。ここまで言っておいてなんだが、
儂にとってドカタは生きる手段であって、目的ではなかった。独立するという野心を持ち、
それを何とか叶えてしまっても、後には特に何も残っとらん」
/ ,' 3「そう思うと、無性に、昔が懐かしくなった」
/ ,' 3「儂の人生なぞ居酒屋の小汚いジョッキに注がれるビールと、
それなりに食える味のする揚げ物があればそれだけで事足りる。
そしてその程度の人生に隣で歩んでくれたのは、今にして思えば婆さんだけだった」
/ ,' 3「願わくは婆さんにもう一度『荒巻さん』と呼んでほしかった。
後ろを振り返る暇も無く、ただ前へ歩み続けるためにあったあの時代が、
そして婆さんと出会い、愛情の結晶とは言えずとも結婚し、徐々に互いを理解できたあの時代が」
/ ,' 3「頭にしがみついて、離れんままやった」
/ ,' 3「儂は婆さんに、ただ婆さんにだけ『荒巻さん』と呼ばれたかった。
あんたみたいな若い娘でなく、今の婆さんにそう呼ばれたかったんだ」
- 258 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:18:17 ID:V8ZUjCnc0
- / ,' 3「結局……その夢は叶わずじまいやった。
思えば儂と婆さんの間にどれぐらい距離があったか、今もってよう分からん。
大の大人が、ついてくる嫁を相手に幸せか、なぞ口が裂けても言えん」
/ ,' 3「ましてや呼び名を変えろなぞ……」
(゚、゚トソン「……でも、店長は、書店を、開いたではないですか。
たった一人のためだけに、開いて、そして一緒に、やっていたではないですか」
/ ,' 3「……確かに、儂は婆さんに精一杯のことがしてやりたかった。
ただそれが正しかったとは到底断言出来ん。あれは仕事やなかったからな。
正解どころか、結果すら見えん。過程が延々と続いておる」
/ ,' 3「婆さんが喀血して倒れたのは、あんたが辞めてすぐのことやった。
医者の説明を受けて、ようわからんが色んな臓器が限界だということだけ分かった。
すぐに入院、ということになって、やることの無かった儂は殆ど毎日婆さんを看取った」
/ ,' 3「……都村。儂は」
/ ,' 3「儂は、お前が、恨めしい」
(゚、゚トソン「は……え……?」
- 259 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:20:04 ID:V8ZUjCnc0
- / ,' 3「婆さんの口から出てきたのは殆どがあんたの話やった。
あんたと話した内容や、あんたの振る舞いや、そういうことを事細かに教えてくれた。
儂は黙ってそれを聴いとった。そんなこと話してる場合やないやろ、と思った。が」
/ ,' 3「そういう時だからこそ、そんなことを話してるんやと分かってからは、
とにかく、あんたが恨めしくて恨めしくて仕方がなかった」
/ ,' 3「誰よりも、何よりも、都村という若者の存在が婆さんを支えておる。
そこに儂の入る隙間などない。儂は聞き役になって黙って椅子に座ってるしか能が無い。
臥せっとる婆さんはいつもの幾倍もよう喋っとった。ちょうど、今の儂みたいにな」
/ ,' 3「なんやよう分からん呼吸器みたいなのを付けてまで」
/ ,' 3「……若さ、言うのは怖いな。簡単に人を生かすし、人を死なせる。
何が怖い言うて、当の若者がその力に気付いてないところや」
(゚、゚トソン「……」
/ ,' 3「……都村。あんたには言いたいことがあった。
それをこんな、偶然に出会ったような場所で言うべきでは無いのかも知れん。
やが、もう次があるとも分からんし、多分無いやろう。そう思う」
/ ,' 3「これはあくまで仕事でも何でも無く、道楽者としての言葉や」
/ ,' 3「あんたの働きぶりは、まあ、程度で言えば並か、それより少し下やったと思う。
意欲で言えば、殆ど無いようなもんやった。その点ではもっと他にええ奴がおったやろ。
でもあんたは婆さんの話し相手になってくれた。婆さんの隣に立ってくれた。婆さんの思い出になった」
/ ,' 3「やから」
/ ,' 3「……本当に、ありがとう」
- 260 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:21:04 ID:V8ZUjCnc0
- 堰を切ったように喋り始めた店長は、不意の感謝と礼によって完全に途切れた。
私も私で絶句した。白い頭を眺めながら、私はどうしようもない気持ちの遣り場に困惑していた。
店長の感謝からは、無念さが切々と伝わってくる。
私への羨望や私怨、自分自身の寡黙さへの後悔や反省。
それらが心の中で一つに固まって、感謝の言葉が出来上がったのだ。
私にとっては、あまりに濃密な感謝だ。
(゚、゚トソン「いや、そんな……私、何もしてないですから」
/ ,' 3「……思えば儂の人生というのは、儂の性格のせいもあってか、
常に何かに追われているようなもんやった。箱入り娘やった婆さんには、
ついてくるのもしんどいと思えることが、しょっちゅうあったんやないかと思う」
/ ,' 3「儂の勘は間違うてなかった。
あんたを採ったのは、あんたがそれほど大事を起こさんやろうと思ったからや。
老いさらばえて疲れ切った人間になって初めて、何もしない、の大事さが分かる」
/ ,' 3「あんたは何もせんかった。やからこそ、婆さんの良い癒やしになった」
そう言った店長は、だしぬけに服のポケットをまさぐり、長財布から千円札を三枚、取り出した。
/ ,' 3「会計、しといてくれるか。儂はそろそろ買い物しに行く。売り切れるかもしれんからな」
- 261 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:22:11 ID:V8ZUjCnc0
- (゚、゚トソン「あ……はい。いや、でも、こんなに要らないですよ」
/ ,' 3「……釣は、時給や。取っといてくれ。
すまんかったな。時間使わして」
(゚、゚トソン「……」
/ ,' 3「あんた、その顔は」
(゚、゚トソン「え」
/ ,' 3「もしかしたら、自分が辞めへんかったら、婆さんが生き延びてると、思ってないか」
(゚、゚トソン「……」
/ ,' 3「誤解せんとってくれ。そういう意味ではあんたを少しも恨んどらん。
婆さんに時間が来た。それだけの話や。もうすぐ儂にも時間が来るやろ。
そういうもんや。若者が、爺さん婆さんの生き死にで心痛めてもどうしようもない」
/ ,' 3「婆さんはな、言うとったぞ。あんたが、立派なお嫁さんになれたらいい、と」
- 262 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:23:09 ID:V8ZUjCnc0
- 私は、最早お婆さんの思い出の中にいる自分自身を打ち壊してしまいたい気分だった。
確かにそんな会話をした憶えはある。良いお嫁さんになるのが一番だと、私は言われた。
それでも、それにしても。
多少なりとも私を心の拠り所にし、そして旅立っていったお婆さんの言葉として。
それは、あまりにも重すぎるのではないか。
私はやはり他人に影響を与えているのだろうか。
それどころか、私は他人の命さえも左右しているのか。
いや、そんなことは自分への過大評価に過ぎない。
それでも、お婆さんが私を思い出とし、最期まで私を語り、心配していたのなら。
このような生き方は、何と非情で、世知辛いものであろう。
/ ,' 3「……じゃあ、儂は行くぞ」
(゚、゚トソン「あ……あの」
/ ,' 3「ん?」
(゚、゚トソン「一つ、教えていただけませんか……」
(゚、゚トソン「その……お婆さんは」
(゚、゚トソン「良いお嫁さん、でしたか?」
- 263 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 00:24:17 ID:V8ZUjCnc0
- / ,' 3「……」
少しだけ腰を浮かせた店長がそのままの姿勢で考え込む。
/ ,' 3「思い出した、ことがある」
/ ,' 3「儂は本のことなど何も知らん。雑誌にも、漫画にも、ましてや小説にも殆ど興味はない。
試験の参考書やビジネス書ぐらいは目を通したが、そのせいかあまり本自体に良い思い出が無い。
やから婆さんと本の話題で盛り上がることは殆ど無かったし、婆さんもそれを理解しとった」
/ ,' 3「……夫婦で生活しとる以上、どうしたって諍いが生じる。
別にどちらが悪いわけでもない喧嘩もようやった。
若い頃の儂は短気やったせいか、よう怒鳴ったりもしたもんやった」
/ ,' 3「すると婆さんも部屋に閉じこもったりなどしてしまう。儂もずかずかと踏み入ったりはせんかった。
そうやって時間が過ぎる。段々と、何であんなに怒ったのかよう分からなくなる。
そんな頃合いになると、泣いて目を腫らした婆さんが部屋から出て来る」
/ ,' 3「都度、婆さんは同じ身振りをする。最初にそれは何だと訊ねたら、
好きな小説家が文章でよう使っておった口癖だ、と言った。
どうしようも無いときに、泣き笑うような気分で、もしくは笑い飛ばすような気分で使うのだと言う」
/ ,' 3「……そう言えば、婆さんは逝く間際に、同じような身振りをしようとしていたかもしれん」
/ ,' 3「こんな具合に」
そう言って店長は立ち上がると、私に向かって逞しさの残る二本の指を立ててみせた。
/ ,' 3「ピース」
そして、彼は去っていった。私に、三千円と言いようのない虚しさを残して。
彼は……店長、だ。
私が彼を荒巻氏と呼ぶことも、また彼がそう呼ばれることも、決して無いだろう。
10.呼ばない 終わり
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