(゚、゚トソンフラジールのようです

269 名も無きAAのようです 2013/02/10(日) 23:59:50 ID:V8ZUjCnc0
11.訊かない

更に一週間が経過した、水曜日。
私は珍しく寝床に臥せたまま一歩も動くことができずにいた。

自分の健康にはある程度自信を持っている。
必要以上に食生活などを気遣っているつもりはないが、小学校の頃からあまり病気にならなかったし、
その積み重ねで学期末にもらえる皆勤賞が、誇りだったりしたこともあるぐらいだ。

その私が今、体調を崩して布団にくるまっている。
体温計によると熱は三十七度。微熱だ。にも拘わらずこの酷い悪寒は何なのだろう。
背中から死神に抱きしめられているような感じ。眠気にも勝る、気だるさ。

そして腹部に重くのしかかっている鉄塊のような不快感。
ともすれば嘔吐にも及びそうなのだが、咳き込んでも口の中に胃液の味が広がるだけだ。

昨晩から碌に何も口にしていないのだから当然と言える。
しかし、何かが行き場を失って蠢いているようにも感じる。

常備薬などロクにないし、取り敢えず解熱剤だけは飲み込んだが、
医者に行く気力も出ないのでひたすら布団の中で転がっている。
どこからともなくやって来る震えのせいで携帯を持つこともままならない。

こんな日に限って外は快晴だ。憎らしいぐらい、雲一つ見えない。

270 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:01:31 ID:UJ9Oroso0
今日は企業の説明会に赴く予定だった。
そろそろ大学での合同セミナーに加えて、企業単体での説明会も始まっている。
合同セミナーよりも選考に直結している場合が多く、合理的なのだとネットで見かけた。

体調不良を押して出席することも考えたのだが、
よくよく思い返してみればそこまでして行くような企業でも無い気がしたので、直前になってキャンセルした。
いや、そもそも何処であれば出席していただろう。そんなに魅力的に映る会社が、世に存在するだろうか。

この一週間もその前の一週間と同じように、ひたすら説明会を渡り歩き、
エントリーシートや履歴書と向き合い、延々と会社情報を検索する作業の繰り返しだった。
内藤氏には未だ連絡していないし、彼から連絡がくることもない。

ただ漫然と、籤を引き続けているような毎日。
いつ当たりがやってくるかもわからない。当たりが紛れているのかもわからない。
それでも私は引き続けなければならない。たまにやってくる書類選考の結果に一喜一憂しながら。

実際、何と不毛な作業であることか。

しかし今、十万単位の学生が私と同じことをしている。
それぞれがどれほどの意識を持って取り組んでいるのかなど知る由もない。
しかし彼らは実際に動いているのだし、だからこそ就職活動という社会現象が巻き起こる。

そうだ、私は動きださなければならない。
意欲的でなく、履歴書にも体裁を繕った文章以外何も載せられない私だからこそ、
他の人よりも機敏に、そして力の限り動かなければ何一つ勝ち得ることはできないのだ。

勝ち得る。

勝ち得るって、何を?

271 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:02:27 ID:UJ9Oroso0
それよりも私には考えたいことが数多くあった。
デレのこと、店長のこと、ハインの痣、そして、内藤氏……。
それらを順繰りに考えて、やはりどうしようもなくなって、頭を抱える。

臥しているとその分、ネガティヴな思考に陥ってしまう。負の連鎖だ。

「貴方は何をしているのですか?」という問いかけに、明確な回答を出せる自信がない。
強いて言えば「考えています」だろうか。しかしそう答えれば次に「何を考えていますか?」と問われるだろう。
私は何と答えれば良いのだろう。考えることが多すぎて、具体的には述べられない。

しかしその全てをまとめてみても、他人には「無意味」と断じられるのではないだろうか。

今の私がすべきことは一枚でも多く履歴書を書くことであり、一社でも多く企業を知ることであり、
一歩でも多く説明会場へ踏み入ることであり、一ページでも多く面接対策の本を読むことだ。
何故なら、そういう時期だからだ。この時期を逃してしまえば、愕然とするほどにチャンスが減じる。

故に私は就活というただ一つの物事に向かって集中せねばならないし、他のことは後に回すべきだ。
周りを見渡し、企業の情報を見聞きすることで自然とそうした意欲は育つものだと思っていた。

だが私が今持ち合わせているのは、未だ無気力としか呼べない矮小な思念に過ぎない。
何もしたくないという思いが変わるわけでもなく、ハインや内藤氏への興味が失せることもなく。
私の思念からは社会生活という根本的な必要事項がまるで抜け落ちてしまっている。

それは分かっている。分かっているのだ。だからといって、考えを変えることができない。
社会生活とは一種の宗教的概念なのだろうか。無神論者に神の存在を納得させるのは恐らく困難を極める。

272 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:04:01 ID:UJ9Oroso0
仮に私の悪循環を全て責任転嫁してしまうとしよう。

私は所詮、ちょっとだけ精巧にできたガラスの人形に過ぎない。
その私に幾つかの鎖が伸びてくる。それは例えばハインであり、内藤氏であり、店長であり。
それらの鎖が私の手足を縛りつけ、四方八方へ向かって引き絞っているのだ。

ガラス細工の中核にはこれもまたちょっとだけ精巧な瓶が組み込まれていて、
そこには今、どどめ色をした水が溢れんばかりに湛えられている。
私自身が好んで仕立て上げた水の色。しかし、どうもこれが最も厄介であるらしい。

就職活動がやってくる。いや、それは別に違う名前の何かでも構わなかった。
ただ「何もしない」や「何も選ばない」を受容しない存在でさえあれば、どのようなものでもよかった。
そうした頑迷な何者かは、どどめ色のような例えようのない色の心を許してはくれない。

そういった時間が徐々に、徐々に私の中へ食い込んでくる。
過ぎ去ってしまう頃には何かを喪失してしまうのだと、私は私なりに理解している。
それは安寧な未来かもしれない。些少な矜持かもしれない。社会における一定以上の身分かもしれない。

私には二つの選択肢がある。
どどめ色の瓶の水を流してでも時間の楔を受け入れるか、もしくはそれに抗って瓶を守るか。
二つを両立させるなどという器用な真似が、私などに出来るとは思えない。

私は凡人だ。そして清濁併せのむという方法自体も、ハインが言うほどには特別でないだろう。
しかし、凡人は凡人なりにいつか、どこかで自分の色に見切りをつける。
そして安定した社会生活を始めるのだ。幾つかの心から逃れて。幾つかの問題を見て見ぬふりをして。

それは、もしかしたら『忙殺』と表現されるのかもしれない。

273 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:05:16 ID:UJ9Oroso0
そうだ、時間だ。

時間が勝手に私の中へ入り込んでくる。人が十月十日経てば母の中から出なければならないように。
七十年や八十年経てばあの世に旅立たなければならないように。
学生生活が二十代前半で終わり、社会人としての生活も六十半ばで終わるように。

この世の全ては時間によって支配されている。

結局、私にとどめを刺すのは他の誰でもなく、ましてや自分自身でもなく、時間という概念なのかもしれない。
ハインについて考え、内藤氏について考え、店長について考え、小説について考え……。
そうやって一つ一つと向き合うには、あまりにも時間が足りないのだ。

身体を震わせて何度も咳き込む。吐いてしまったほうが楽な気がするが、どうにもならない。

私自身が今まで何も考えてこなかったのだという非もある。
これまでの私はただ呑み込めるだけ呑み込んで、それを考察する気などさらさらなかったのだ。
だからこそこうなった。現実としては殆ど何もしていないのに、心の中で私がもがき苦しんでいる。

心が、もしくは私自身が、鎖と時間によっていとも容易く引きちぎられようとしている。

怖いのだろうか。恐ろしいだろうか。私は何を怖がっているのか。
自分自身が失われてしまうことに? それとも自分の中にある他人が失われることに?

それは、私が思うほどに恐ろしいことなのだろうか? 
大抵の人は、そうした体験を経ても生き延びているのではないだろうか。

274 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:06:52 ID:UJ9Oroso0
責任転嫁をした以上、マイナス分を埋めるためにも自分を攻撃しなければならない。

私はどうやら自分が思う以上に他人の中に存在してしまっているようだ。
先週に店長から聴かされた話は……良い意味でも悪い意味でも私には重く響きすぎた。
お婆さんの一生の、その終末部分に少なからず私が介入してしまっていたらしいのだ。

あまつさえ、店長は私に感謝をしたのだった。

私はまだ、それが自分の役割だったなどと納得できるほど、自分を肯定することが出来ない。
店長の言った通り、当の本人がまるで気付いていなかったのだ。

それだけではない。デレや内藤氏が言う全能感、他人を是認する能力……。
少しずつ解釈してみたところ、それらは「ありのままを受け入れる」と言い換えられるのではないかと気づいた。
今のままでいい。そんな貴方だから良かったんだ。私は全身全霊を込めてそう説得していたのではないか。

思えば他人を否定することなど殆どなかった。
自分と違う生き方をしている人がいたとしても、そういうものか、と納得して接してばかりだった。
だから私はハインやデレと友人になれたのだろうし、内藤氏とも割とすぐ話を合わせられたのだろう。

しかしそれは……そういう、能力は、相手にとって良いものだったのだろうか。
私はもしかしたら、他人を変化に導くのではなく、停滞に陥らせる悪魔じみた誘惑をしていたのではないか。

もしそうだとして、私は何のためにそのような真似をしていたのだろう。
私は小説を書く。出来れば今までにない、何か新鮮な作品であればいいと思っている。
ただ、それは結局のところ目を配れる距離にある、私からそう離れた場所ではない。

私が私である以上、どうしたって限界は存在してしまう。

275 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:07:59 ID:UJ9Oroso0
ならば、私は私が思っている以上に圧倒的な近眼だったのではないか。
たまたまハインやデレはその範疇にいた。だから私は捉える事が出来た。

そうだ、私は自分に眼鏡を着けることさえ拒んでいた。ある意味で、いつまでも近眼の自分に依存していた。
何のことはない、誰よりもフィクションじみた変化を望んでいた私こそが真実の意味での停滞者であり、
あまつさえその道筋に他人をも引きずり込もうとしているのだ。

私が希求する変人にしても、それは恋愛や就職活動や分かりやすい青春映画の一片などと一線を画し、
出来る限り現実から縁遠いものでなくてはならず、尚且つ私の手の届く範囲になければならない。

内藤氏は、私にとって恰好の『変人』だったのだ。

内藤氏のような人物は珍しくないのかもしれない。その存在自体を否定するつもりはないが、
どことない作り物っぽさがある。私が本当に希求していた人とは言い難い。
ただ、そんな内藤氏は、私が想像で弄ぶには必要十分な『変人』だった。

希求ではなく、むしろ足踏みや退転を手助けする、『変人』。

そうやって考えていくと、『変人』というのも案外と複雑な言葉だと思えてくる。
変人という言葉の枠に当て嵌まってしまっている以上、それは最早『変人』と呼べないのではないか。
ならば私は最初から凡人を求めていたことになる。何の変哲もない、ただの人間を。

そうして、前へ進まないでいられることへの充足感を満たしていたのだ。

276 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:09:12 ID:UJ9Oroso0
笑えてくる。

私は自分が凡人であることを割と自覚していた。だから変人を追い求めた。
しかし求めていたものさえも、平凡に過ぎない何かでしかなかったのだ。
いや、それさえ、私の中にある停滞への欲望が変人を凡人にすり替えていたのかもしれない。

ならば、凡人を呑んだだけで濁りきったこの心にはどう説明をつければいいのか。

自らが併せ呑んだ一切を凡人だと定義づける。
ただそれだけでこの水は浄化されるのだろうか。
鎖から解き放たれ、透明な水の入った瓶を抱える私は、いったい何者なのだろう。

そこにはただ時間という名の杭だけが残る。それが段々と身体に食い込んで、
いずれ瓶を壊し水を垂れ流させるのだとしても、もう悔いは残らないだろうか。
むしろ私は積極的に瓶を壊しにかかるべきなのだろう。そうすれば、割と、簡単に、楽になれる。

……盛岡、という人が前に言っていたような気がする。
働くために働くわけじゃない。何かもっと豊かな、生活のために働くのだ。
豊かさとは何だろう? それは働きの対価で贖えるものなのだろうか?

私の中でピチャピチャと揺れ動いている水を、浄化してくれるのだろうか。

少なくとも、現在の私が屋根と壁のある部屋に寝泊まりし、
そこから大して興味のなくなった大学の講義を受けに行くことが出来ているのは、
今日まで働き続けてきた父親と、今はもう専業主婦になっている母親のおかげだ。

なのに、私は何となく自分の中にある問題を解決出来ずにいる。
素直な気持ちで納得できない、自分がいる。

そんな矛盾した思想が脳内で入り乱れるにつれ、体の細胞が日々変化していることを感じる。おかしな具合だ。

277 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:10:05 ID:UJ9Oroso0
……いっそ、私が希求するのは『変人』の枠に当て嵌まらない人なのかもしれない。

つまりそれは盛岡氏であり、店長であるような、ごく一般的な、社会人。
彼らのようになることを、真実私は望んでいるのかもしれない。
それは迎合であり、妥協かもしれない。しかし、そうでもしなければ私は生きてはいけまい。

何故なら、私には才能が無いから。

いや、『凡人』になる才能すら、無いのでは?

私はどうすれば盛岡氏や店長のようになれるだろうか?
無理かもしれない、とまず否定から入る。盛岡氏には採用をやんわりと拒まれ、
店長にもこの業界は向いていないからやめておけ、と言われた。ならば彼らを真似ることは不可能だ。

しかしそれに近しい道なら歩けるかもしれない。どうすれば?

自分の中にある色つきの水が、熱も帯びずに蒸発していくのを感じる。
変人を凡人と定義しなおしたせいで、私はその水を留める意味すら失ったのか。
しかし蒸発しきってしまえば、後に残るのはただのガラス細工だ。空っぽの、ガラス細工。

孤独、とでも呼べるような。

本当の孤独ではない。相変わらず私の周りには人間がいるだろう。
しかしそれでも、私は孤独なのだ。利己的ながら、私は未だ人混みに溶け込めない。

そんな自意識が宿るガラス細工は、ともすれば色つき水で満たされている時よりも壊れやすいのではないか。

278 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:11:14 ID:UJ9Oroso0
『……どう、就活は?』

(゚、゚トソン「まあ……順調に、してますよ」

『公務員って手段もあるみたいだけど、考えてないの?』

(゚、゚トソン「……試験、難しいみたいですし、倍率も高いですから……」

病床に臥したまま、私はいつの間にか母と電話をしていた。
こちらから連絡したのか、向こうから連絡をしたのか、分からない。
ただ薄ぼんやりとした白枠で囲まれているような視界の中に、母の声だけが響いていた。

『まあ……実際公務員だった身としては、勧める気にはならないけどね』

(゚、゚トソン「……」

『でも、もしかしたらまだマシな仕事ってことになるのかもねえ。
 最近のニュースなんか見てると、そう思ったりもするわ』

(゚、゚トソン「だから、みんな、目指すのかもしれませんね……」

『若いからって無茶が出来る時代でも無くなったのかもねえ』

279 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:12:14 ID:UJ9Oroso0
(゚、゚トソン「……あの」

『うん?』

(゚、゚トソン「一つ訊きたいことがあるんですけど、宜しいですか」

『なに、改まって』

(゚、゚トソン「その……父さん、のことなんですけど」

『うん、今日も生真面目に働いてるわよ。それで?』

(゚、゚トソン「……何故、父さんは、無口になったんですか。
     前に、昔、色々あったから、と伺ったような気がするのですが」

『ああ……その話』

『別に話してもいいんだけど……あんたも立派な成人だしね。
 ああ、お父さんには黙っといてね。今でも、ずいぶん気にしてるみたいだから』

(゚、゚トソン「……はい」

280 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:13:23 ID:UJ9Oroso0
『お父さんが銀行員に勤めてるのは知ってるわよね。それも、地方の銀行。
 地方銀行っていうのは、まああんまり分からないけど、小さいお客さんが相手なのよ。
 例えば規模の小さい会社とか、個人のお客さんとか……都市銀行と違うの』

『お父さんが若いころはまだ景気が良くってねえ、銀行なんかもお金を出し惜しみしなかったのよ。
 銀行の仕事って、お金を預かることというより、お金を貸すことだから。
 そこまで考えずにお金を動かしても、十分儲けられたわけ』

『……信じられないかもしれないけど、昔はすごく口達者だったのよ、お父さん。
 特にお客さんと話をするのが得意でね、随分と信用されてたみたい。
 だから銀行での評価も上がって、上司の評判もすごく良かったのよ』

『ただ、景気が良くてもやっぱり、駄目な会社もあってね。
 銀行からお金を借りてもさっぱり返せなくて、首が回らなくなるのよ。
 お父さんは、そういう会社の社長さんを助けようと、すごく頑張ったのよ。でも』

『ある時に、担当していたお客さんが、自殺しちゃってね』

『小さな個人経営の酒屋さんだったらしいんだけど、上手く景気に乗れなかったらしくて。
 でもすごく人柄が良くてね、もうお爺さんみたいな歳だったけど、お父さんとも仲が良くて。
 ただ、性格が良いからこそ、思い詰めちゃったみたい』

『それでお父さん凄く落ち込んだのよ。でも、その時は何とか立ち直ったの。
 自分の中でどう決着をつけたのか知らないけど、とにかく、
 そういうこともあるんだって、区切りをつけて。もう一度頑張ることにしたみたい』

『そうしたら、全く同じようなケースで、同じようにしてお客さんが亡くなったのよ』

281 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:14:13 ID:UJ9Oroso0
『結局、お金ほど簡単に人を殺す道具は無いってことなのかもしれないわね。
 景気が良くなると銀行は、それに乗じてお客さんに滅茶苦茶させようとするから。
 実態の無いお金で土地を買わせたり、そこで生じたリスクを押しつけたり……』

『その頃の銀行では当たり前の話だったし、別にお父さんがあくどかったわけでもないのよ。
 でもお父さんは、そんな『当然』をなかなか受け入れられずに悩み続けた。
 問題は自殺だけじゃない。人を殺さなくても、家庭を潰してしまうことぐらいは、よくあったの』

『お父さんの話しぶりはね、キチッとした営業トークじゃなくて、フレンドリーな感じだった。
 だからこそ悩んだのかも知れないわね。自分の話し方が、人を殺してるんじゃないかって。
 口は災いのもとって言うじゃない。あれは本当なんじゃないかって、お父さんは信じてしまったの』

『そんな風にしてたら、私とお見合いすることになってね。ま、私は一目惚れだったんだけど』

『でもお父さんはもう殆ど寡黙になりかけてた。時々口を開くと、さっき言ったようなことをね。
 まるで懺悔でもするみたいに、話すのよ。付き合い始めてからも色んな問題が起きててね』

『運が悪かったのかもしれない……わね。ある時にお父さんは私に向かってこう言ったのよ。
 僕は言葉で人を傷つけたり殺したりするかもしれない。けれど、僕は貴方のためにも仕事はやめないし、
 完全に口を閉ざすこともないと思う。僕は、僕なりの頑張り方で頑張ってみる』

『それでもいいなら、結婚してください、って』

『あの時の私は即座に承諾したけど……今思えば重たい決意だったんだろうね。
 それからのお父さんは益々寡黙になって、でも、言った通りちゃんと仕事をして。
 あんたが産まれる頃にはもう十分なぐらい出世して、誰から見ても良くできた社会人だった』

282 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:15:27 ID:UJ9Oroso0
『あとは、あんたも知ってる通りだと思うけど』

(゚、゚トソン「はい……」

『本当にねえ、嫌になるくらい生真面目な人だから……。
 もしかしたらあんたは不自由したかもしれないけど、その分私がよく喋ってたと思うし。
 今もまだだんまりしてるけど、退職でもしたらまた口を開くのかねえ……』

(゚、゚トソン「……私は、不自由などしていなかったです。ただ、少し、不思議に思っていただけで」

(゚、゚トソン「その……本当に、すごいと、思います」

『……あんたが言うと、相変わらず他人事みたいに聞こえるわね』

『でも、あんたの父親なのよ』

(゚、゚トソン「……」

親とは、何なのだろうか。私にしてみればよく分からない。
産んでくれと頼んだ憶えはない、などと言うつもりは無いが、
だからといって私にとって親という関係が率直に飲み込めているわけでも無い。

しかし、親は親だ。
ここに至るまで、父は恐らく血反吐を吐くような思いをしてきたに違いない。
それが私の父だ。母が口にするまで敢えて私に過去を伝えなかったのが、私の父なのだ。

私は親にさえ敬語を遣って接する。いつからか、そういう壁を築いてしまった。
寡黙を貫いた父同様、私もまた、自分だけの盲信によって、そのような『自分』を作り上げたのだ。

ならば、仮に相手が親で無かったとしても。
私と父が似ているという意見に、誰が異議を唱えるだろう。

283 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:16:08 ID:UJ9Oroso0
次の瞬間、携帯が震えて、私は『目覚めた』。

(゚、゚トソン「……?」

瞼の重さ。喉の渇き。どうやら私は眠り込んでしまっていたらしい。
だが、だとしたら私は『どこからどこまで』眠っていたのだろう?
先ほどまで電話で母と会話をしていたような気がする。あれは、夢だったのだろうか。

時々ある現象だ。疲れ切ったときに寝床へ倒れ込むと、
いつの間にか自分が積極的に考えているのか、それとも夢を見ているのか分からなくなる。
そしてそういった時に見る夢に限ってリアリティがあるから、記憶が混同しそうになる。

ならば、私は何を、どこまで、自分の意思として考えていたのだろうか?

ガラス細工の自分や、変人と凡人の概念などは、本当に私の考え方だったのだろうか。
記憶に深く刻み込まれているそういった意識でさえ、私は疑わずにはいられない。
しかし、どっちにしたって私の中に産まれてしまった思念であることには変わりない。

そういう自分が存在しているという事実は、変わらないのだ。

そして確かな現実が目の前にある。
私は今、ほぼ確実に覚醒している。そして、目の前で携帯が着信を告げている。
母に電話をしたこと自体は、後から着信履歴を遡れば自ずと分かる話だ。

それよりもまず、取り組まなければならない問題がある。
表示されている番号は、登録はしていないものの見覚えのある番号だ。
私が今日に至るまで逃げ続けていた番号。最もどうすればいいか分からない番号。

私は携帯を手にした。見えない強迫観念が私を後押ししていた。
いずれはどうにかしなければならない相手だ。今、忌避してしまえばもう機会は無い。

(゚、゚トソン「……もしもし」

284 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:17:09 ID:UJ9Oroso0
『もしもし、内藤です』

(゚、゚トソン「あ……はい。都村です」

『お久しぶり……ですね』

(゚、゚トソン「そうですね……あの」

何とか謝罪を絞りだそうとした私を遮って、電話の向こうの内藤氏は、

『ごめんなさい』

と、言った。

(゚、゚トソン「え……?」

『本当はもっと早く連絡しないといけないと思ってたんですが、
 どうも躊躇われてしまって……。今日になって、やっと、決心がついたんですよ』

(゚、゚トソン「それは、どういう……」

『僕、昔から、自分ではよく分からないタイミングで人を傷つけてしまうみたいで……
 あの時も、都村さんに、あんな顔を、させるつもりは、少しもなかったのに……』

(゚、゚トソン「違う……んです」

『どうすればいいか分からなくなってしまって、はは。
 取り敢えず、先週と今日の水曜と土曜は喫茶店にいたんですけど、
 でも、肝心なのは謝ることだったんだなって、思い直して、それで、今日……』

285 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:18:06 ID:UJ9Oroso0
(゚、゚トソン「……待ってて、くれていたのですか」

(゚、゚トソン「ずっと、あの、場所で、待っていて、くれたのですか……」

私は、何かに引きずり込まれているような思いを抱えている。
彼の謝罪を素直に受け取ることが出来ない。それどころか、否定すらしたくなる。
いや、むしろ否定するのが正解ではないか。あの行為は、完全に私の暴走だったのだから。

もう何も分からない。

『変人』として出会うことになった内藤氏を、私は『凡人』に仕立て上げようとしていた。
頭の中にとどまらず、実際に彼本人へも及んでいたのでは無いだろうか。
私は小説を書く。彼と同じように、表現をしようとする。だから、少しだけ分かってしまう。

凡人であると断ぜられてしまうのはあまりにも苦痛だ。
ならば、私こそが苦痛そのものなのではないか。

それはまるで重量を持った罪のように私の心へ覆い被さる。
仮説が正しいのかどうかなど分からない。内藤氏が私をどう見ているかなど、分かるはずも無い。
それでもなお、この心が、もしくは経験則が、私を否定しようとする。

(゚、゚トソン「私……」

(゚、゚トソン「私、あの……」

286 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:18:54 ID:UJ9Oroso0
身体中が水分を欲している。
それで口を潤すのか、涙として利用するのか分からないが、ともかく私は飢えている。
しかし動くことが出来ず、ただ疲労した精神と身体がせめて内藤氏の言葉だけでも聞き取ろうと集中している。

『……それで、ええと、どうしましょう』

(゚、゚トソン「……」

説明会の予定などいくらでも組み込むことが出来る。
それでなくともエスカレーター式に面接や筆記試験の日取りが決まっていき、ダブルブッキングもままある。
今はそういう時期なのだ。だから仕方がない。故に受け入れなければならない。でもそれが出来ない。

小学校が六年間、中学校が三年間、高校が三年間、そして大学を約三年間。
今のところ、私の人生に休息らしい休息は無かった。それが当たり前なのかも知れない。
私のような若者がしばらく休みたいなどと、ただ贅沢なだけだろう。

だが私は、心の底から、時間を欲している。
ただひたすら思考するだけの時間を、立ち止まるだけの時間を、希求して止まない。
そんなことを考えているから更に時間を浪費する。何も成さずに、一日が、一週が、消えていく。

掻き毟る胸が、痛いほどに脈動している。
私は生きている。私は生きてしまっている。
それなのに何も出来ない。盛岡氏のように、店長のように、父のように、なれない。

夢の中だったのかもしれない父のエピソードを、私は未だに受け入れられずにいた。
何故だろう。何だか、途轍もなく怖いのだ。その事実をそっくり呑み込むことが、怖い。
私は、本当の社会人が最も身近にいたという認識に、怯えてしまっているのだろうか。

その人物が、私の『父』であるという事実が、耐えられないのだろうか。

287 名も無きAAのようです 2013/02/11(月) 00:19:56 ID:UJ9Oroso0
『都村さん……?』

近すぎる距離が、嫌なのだろうか。遺伝子という、どうしようもない脈絡によって、
しっかりと結びつけられてしまっている相手が、一人前の人間であることに、罪悪感を覚えるのか。

考えるべきことが多すぎる。結局まだハインは痣の理由を教えてくれていない。
電話の向こうには内藤氏がいる。早く答えを返さなければならない。
だから休みたいと言っているのに、時間は前へ前へ行く。

どうせなら置いてけぼりにしてくれて構わないのに。
どうして、私を、連れて行こうとするのだろう。

(゚、゚トソン「私、あの」

乾いている両眼が、本当なら涙を流しているだろうと私は予期する。
私には現実から目を背けることさえ許容されないのだろうか。それが『凡人』たる咎なのか。

(゚、゚トソン「内藤……さん」

何故生きているのか。何故小説を書くのか。そんなもの分かるはずもない。
そんなことに於いて懊悩し、生きることさえ苦労するのは、ただ繊細である証なのだろうか。
繊細であるということは、こんなにも罪であろうか。

(゚、゚トソン「……ごめん、なさい……」

私は再び内藤氏を引きずり込もうとしている。何故なら、私は生きているからだ。
生きている限り、私はどうしようもなく、他人に迷惑をかけてしまうのだ。

(゚、゚トソン「助けて、ください……」

私は、都村トソン。

電話を終えた私は着信履歴で母と通話したことを確認した。
しかし、父の話が本当であるかどうかは分からない。
敢えて訊こうとは思わない。いや、訊くことなんて、出来ない。



11.訊かない 終わり




目次
inserted by FC2 system