(゚、゚トソンフラジールのようです

191 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:36:59 ID:10yWY8Xc0
8.消えない

(゚、゚トソン「ハイン!」

六番会館の一階ホールに私の、やや甲高い声が響いた。

大抵の人が思っているのと同じように、私も自分の声があまり好きではない。
だから大声を出すのは躊躇われるし、出来れば囁き程度の声だけで生きていきたいとも思っている。

それでも、声を高めなければならないときも、ある。

そそくさと会館を後にしようとしたハインがぴたりと立ち止まった。
私は少しずつ歩み寄り、彼女の前へ回り込んだ。

从 ゚∀从「よ、よう」

ハインは相変わらず美しい顔立ちをやや斜めにして、私に目を合わせようとしない。

从 ゚∀从「久しぶり、だな」

(゚、゚トソン「ええ。二週間ぶりですね」

从 ゚∀从「……あー、悪いけど俺、急いでるんだよ。その、バイトでさ」

192 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:38:25 ID:10yWY8Xc0
(゚、゚トソン「分かりました。じゃあ一緒に行きましょう」

私は、たぶん少し怒っている。
彼女がどのようにしてこの場を逃れても決して許さない覚悟があった。
それは臨床心理学の試験の開始寸前に講堂に入ってきたハインを見た、その瞬間に完成したのだ。

故に私は、さっさと解答用紙を埋めて退出可能時刻である終了三十分前に即座に講堂を出たのだ。

(゚、゚トソン「駅まで、行きましょう」

从 ゚∀从「あ、ああ……」

ハインが後ろめたい表情をするのをあまり見たことがない。
あるとすれば、最初に私へ件のアルバイトについて詳らかにしたときだろうか。
ただ、あの時は私自身の衝撃が軽く彼女の表情を上回ってしまった。

从 ゚∀从「……や、悪かったって」

会館を出て駅へと向かう下り坂を二人で歩きながら、ハインは言う。

从 ゚∀从「流石にな、人としてやっていいことと悪いことがあるよな」

(゚、゚トソン「……」

从 ゚∀从「はい、分かりました。もうカンニングペーパーは使いません」

194 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:39:47 ID:10yWY8Xc0
(゚、゚トソン「ハイン」

从 ゚∀从「……はい」

(゚、゚トソン「そんなことは、どうでもいいんです」

(゚、゚トソン「と言うか、わざわざバラされなければ私も知らずに終わりました」

从 ゚∀从「……そう、か」

今の問答ではっきりと分かった事実が一つ、ある。
ハインは私が問い質そうとしていることを理解しているし、そのうえでそれを押し隠そうとしている。
当然といえば当然かもしれない。私だって、同じ姿になれば何とか逃げ切ろうとするだろう。

(゚、゚トソン「……」

ただ、だからといって何も言わずに見過ごすことが、いつ何時でも出来るわけではない。

(゚、゚トソン「ハイン、どうしたんですか」

(゚、゚トソン「その、痣は」

彼女の相変わらず美しい顔の、左頬に。
巨大で、ただ痛々しいだけの青黒い痣がくっきりと浮かんでいるのだ。

195 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:41:14 ID:10yWY8Xc0
从 ゚∀从「……あー」

从 ゚∀从「昨日……こけた」

(゚、゚トソン「どんなアクロバティックなこけかたをしてもそんな傷にはなりません」

私は直感する。それは何者かに殴られたことによって出来た痣だ。
そうでもなければこんなに綺麗な痣など出来まい。しかも、最近殴られたものに違いない。

从 ゚∀从「あー、いや、違うんだよ」

从 ゚∀从「違うんだ、これは……」

ハインは次に続ける言葉を探して視線を宙にもたげる。
私はただ待ち構えることしか出来ない。
彼女が黙り込むならそれに従うしかないし、仮に嘘をついたとしても、真実は知りえない。

从 ゚∀从「……治ったんだ」

(゚、゚トソン「はい?」

从 ゚∀从「いや、マジで。治った、治ったんだよ」

从 ゚∀从「……んー、いずれ話す、よ。だから今は、一応納得しといてくれ」

196 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:42:26 ID:10yWY8Xc0
真に迫った表情でそう言われれば、首肯せざるを得ない。
頭の中にある数多の疑問を帳消しに出来るわけではないが、
取り敢えずは『いずれ』が早くやってくることに期待するしかないのだ。

从 ゚∀从「……本当は、行くかどうか迷ったんだよ、今日も」

(゚、゚トソン「試験、ですか?」

从 ゚∀从「ああ。単位取っても、どの道留年するだろうし」

从 ゚∀从「けど、トソンにレジュメ全部取ってもらってたからな。
      ……それでも、カンペ用意しないと駄目だったけど」

(゚、゚トソン「……おだてても、その痣のことは忘れませんけどね」

从 ゚∀从「いやいや、そういうのじゃないって、マジで……」

同じ学科に所属していながら、ハインと帰路を共にすることは殆ど無い。
ハインがアルバイトに忙しいという理由もあり、そもそも大学に来ないという理由もある。
だからこうして彼女と二人で坂を下るのは、何となく新鮮な気分になる。

从 ゚∀从「そういやお前……ブーンとは、会ったのか?」

(゚、゚トソン「……ええ、会いましたよ」

197 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:43:50 ID:10yWY8Xc0
私は彼女に、内藤氏とのいきさつや彼に抱いた印象などを簡単に説明した。

(゚、゚トソン「確かに……腑抜け、というか、動画とは全然雰囲気が違って見えました」

从 ゚∀从「だろ? つかお前、あいつのこと『内藤さん』って呼ぶのな。ブーンの方が呼びやすくね?」

私が彼をそう呼ばないのは、そもそも彼が『ブーン』であった時代を知らないからでもあるし、
そこまで親しげに呼べるほど友好的な関係には至っていないからでもある。
ただ、それにしては随分と深い会話を交わしたような気もする。この関係性はどうにも説明しがたい。

(゚、゚トソン「……それで、今度小説を持ってきて欲しい、と言われました」

从 ゚∀从「ああ、好きそうだわあいつ。そういうの」

ハインが最も驚いたのは私と内藤氏が既に二度も接触していることらしかった。
確かに頻度で言えば高いかもしれない。しかも次に接触するのは明日だ。

最近は色々と忙しなく、あまつさえこの短期間で新しい小説など書けるわけもないので、
一年ほど昔に書いた、それなりに自信のある短編を印刷して持って行こうと考えている。

从 ゚∀从「あー、やっぱり」

一連の話を聞き終えたハインは大きく頷きながら言った。

从 ゚∀从「俺の勘は間違ってなかったな。お前好みだよ、あいつは」

198 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:44:49 ID:10yWY8Xc0
(゚、゚トソン「そう……なのでしょうか」

从 ゚∀从「だってよ、常識的に考えて喫茶店で演説聞かされるなんざ、
      普通の人間だったら耐えられないぜ。
      あいつは変人だけど、それ以前に死ぬほど面倒くさい人間なんだ」

(゚、゚トソン「……ハイン。その言い方だと、私に面倒を押しつけたかのようですが」

从 ゚∀从「一石二鳥と言うべきだ」

飄々とそう言ってのけるハインだが、確かに彼女の言葉通りだろう。
私と内藤氏のような――いわば偶発的な出会いが発展するには、
余程上手く互いの持つ歯車が噛み合わない限り有り得ない。

私にとって内藤氏はそういう人間だったということだし、彼にとってもそうだったのだろう。

(゚、゚トソン「でも、彼はハインにも何度となく会いに行っていたのでしょう?」

从 ゚∀从「って言っても数回だけどな。話すためだけによく店に来てたよ」

そもそも、彼は何故……所謂、そういう店に足を運んだのだろう。
ハインによればそもそも、性的な欲望を発散させるためではなかったようだし、
そうであるなら尚更、決して安くは無い代金を支払ってまでハインを指名したのか、気にかかる。

从 ゚∀从「こっちとしては楽でもあり、でも精神的にはしんどくもあったな。
      別に付き合ってやる義理もないんだが、分からないところで評判落とされてもアレだし」

(゚、゚トソン「……」

199 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:45:59 ID:10yWY8Xc0
从 ゚∀从「つーか、ブーンにばっか構ってる場合でもないんじゃねえの?」

(゚、゚トソン「まあ……色々ありますね。就活とか、試験も、そうですし……。
     ああ、この前はまた、デレが失恋したそうなので、その慰め会を……」

从 ゚∀从「なんだ、そいつまたフられたのか」

ハインとデレは、お互いを私を通じてしか知っていないのではないだろうか。
二人が会話しているのはあまり想像出来ないし、普通に出会って友達になるタイプでもない気がする。

私も私で、それぞれに相手のことを少ししか話さないから、
二人は知らず知らずにお互いのことを大いに誤解している可能性がある。

(゚、゚トソン「明日また内藤さんに会う予定で、もう企業の個別説明会も開催されているので、
     そちらのためのエントリーシートなども書いていかないといけないですね……」

从 ゚∀从「ふうん……」

从 ゚∀从「なんつーか、あれだな。就活に試験にブーンにデレとやらに……、あと、何だ?」

(゚、゚トソン「貴方のことです。ハイン」

从 ゚∀从「……ま、それはともかくとして」

从 ゚∀从「お前の最近は、アレだな、結構ぐっちゃぐちゃだな」

200 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:46:58 ID:10yWY8Xc0
ハインの口調は先ほどとは打って変わって、やや不安げなものになる。
私にはその理由が分からず、ほんの少し首を傾げた。

確かに、色々と立て込んでいるのは事実だ。
多くの物事を考えなければならないし、多くの人物について思いを巡らせている。
しかし、それはそんなに珍しいことだろうか? 生きている以上、必須科目ではないだろうか?

从 ゚∀从「……あー、まあ、ブーンを呼び込んだのは俺だからなあ。
      こんなこと言っても説得力ないんだけどな」

(゚、゚トソン「それは私が頼んだことですから……それに、彼と会ったことは良い経験です」

从 ゚∀从「うん……まあ、お前はそう言うだろうけどさ……」

从 ゚∀从「お前さ、どどめ色って知ってる?」

(゚、゚トソン「どどめ?」

从 ゚∀从「うん。色の名前……か、なんかわかんねーけど、取り敢えずそう呼ばれるものがあるんだ」

(゚、゚トソン「聞いたことはあるような」

从 ゚∀从「どうにも濁った色でな。黒ってわけでもなく、もっと澱んだ色のことを言うらしい」

从 ゚∀从「全部の絵の具を混ぜ合わせたような色って言う奴もいる」

201 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:48:15 ID:10yWY8Xc0
(゚、゚トソン「……私が今、そんな感じだというわけですか?」

从 ゚∀从「いや……そうならないといいなって感じだ」

(゚、゚トソン「そう思うなら、不審な痣なんて作ってこないでください……」

从 ゚∀从「面目ない」

初めてハインが素直に謝罪した。突然に態度を翻されても戸惑ってしまう。
これは、彼女なりの心配の証なのだろうか。そうだとして、彼女はいったい何をそんなに心配しているのだろう。
私にしてみればハインやデレや、内藤氏などの方がよほど心配なのだが。

从 ゚∀从「世の中、ままならないもんだよな」

限りある時間を埋め尽くそうとするかのように、ハインが呟いた。

从 ゚∀从「現実世界は漫画じゃないからさ、色んなことが順番とか考えずに起きるんだ。
      それに、いちいち立ち向かっていかなきゃならないんだから、本当にウザったいよ。
      大人が守りに走るのも分かるぜ。こんなこと八十年もやってられっか」

从 ゚∀从「まあ、俺なんて考えてみりゃシンプルな生活してるよ。
      バイトと大学と……ま、多少の用事ぐらいしか、ない。毎日が決まりきってる。
      ある意味で既に守ってばかりなのかもな。皮肉なもんだが、その方が生きやすい」

202 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:49:21 ID:10yWY8Xc0
(゚、゚トソン「ハインの生き方が、生きやすいとはとても思えないのですが……」

从 ゚∀从「いやいや、俺からしてみりゃ、トソンの方が生きづらそうだぜ。
      ……な、トソン。俺のこと漫画みたいな奴だと思ってるだろ」

(゚、゚トソン「え……」

从 ゚∀从「一人称は『俺』、どっから出てきたのかも分かんないし、大学はサボってばっか。
      不埒なバイトに現を抜かしてるくせに金が無い金が無いってボヤきまくり。
      で、挙句の果てには不自然な傷作って現れる。こりゃ漫画だぜ」

(゚、゚トソン「……」

从 ゚∀从「それでも俺は自分を漫画みたいな奴だとは思ってない。
      何故なら、俺の人生は、とても漫画にできるほどスッキリとはしてないからだ」

从 ゚∀从「でもトソン、お前はちょっとだけ漫画みたいな奴なんだよ。
      お前は俺とか、ブーンとか、そういう漫画っぽい奴を、全部受け入れる。
      変人を好むから清濁併せ呑むんだ。それ自体は悪いことじゃないし、確かに良い経験だろうぜ」

从 ゚∀从「でもな、あまりに全部を呑み込んでたらどうなるだろう。
      お前が新しく一つ呑み込むたびに、お前の人生に登場人物が一人増える。
      更にお前はその人物を理解しようとするから、増えるどころか複雑にもなる」

从 ゚∀从「それって、お前が思ってる以上にお前にとって負担になってると思うぜ」

203 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:50:53 ID:10yWY8Xc0
(゚、゚トソン「……だから、どどめ色になるな、ですか」

从 ゚∀从「勿論、俺はお前のことを全部知ってるわけじゃないからな、何とも言えない。
      ただ、もし俺が思うようにお前が漫画みたいな性格の持ち主なんだとしたら、
      ちょっと現実世界じゃ生きづらいだろうなっていう話だよ」

从 ゚∀从「清濁併せ呑むのもいいけどな、割り切るというか、線引きはしておいたほうがいいぜ。
      何かの講義で聴いた憶えがある、精神科医は、ある一定のラインで手を引くから、
      どれだけ狂った話を聴いても大丈夫だって。逆にそうしないと引きずり込まれるって」

(゚、゚トソン「……それでも、ハインは」

(゚、゚トソン「私に、その痣の理由を聞かせてはくれないのでしょう?
     それだけでも納得させてくれたら、私はほんの少し、安心出来ると思うのですが……」

从 ゚∀从「……ああ。そうだな。その通りだ」

从 ゚∀从「現実世界ってのは誰の都合のためにも動いてないからな。
      望まなくても太陽は昇って沈むし、適当にやってても、そのうちしわくちゃになってくたばる。
      俺はな、何回も同じ一年が来るタイプの漫画が嫌いなんだ。羨ましくて仕方なくなるからな」

从 ゚∀从「結局、どいつもこいつも自分の人生ってやつを持っていて、それぞれが同時に動いてる。
      それを数人分だけでも理解しようとするなんざ、そりゃ無理な話なんだと思うよ。
      だから俺はお前にこんな意味の分からん話をしてるし、お前の訊きたいことは話せない」

204 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:52:16 ID:10yWY8Xc0
从 ゚∀从「自分勝手に生きるっつーかさ、そういうのを、しないといけないんだよ。
      俺がお前にこの痣の理由を話せないのは、単純に思い出したくないからだ。
      怖いからでもいい。俺は漫画みたいな奴じゃないから、こんな出で立ちでも怖がりなんだよ」

从 ゚∀从「その恐怖心が少しでもおさまったら、お前には話す。絶対に。約束するよ」

(゚、゚トソン「……そう、ですか」

从 ゚∀从「他人の気持ちを理解しよう、とかさ、そういう心意気を否定するつもりはないぜ。
      むしろ大事なんだろう。でも、本質的な部分で、俺たちは、どうしたって自分勝手なんだ。
      何をするにしても、自己満足を前提にする以外は有り得ないんだよ」

(゚、゚トソン「……」

从 ゚∀从「お前は、自分が危なくなったらブーンでも、俺でも、蹴っ飛ばして逃げなきゃならない。
      そういうもんだよ。まあ、そうならないように俺も精一杯努力するけどな。友達だし。
      心にはまず自分のことを入れておいて、出来た余裕で他人のことを考えようぜ」

(゚、゚トソン「……ハイン。私には、よく分からないですけど」

(゚、゚トソン「……本当に、怖いん、ですね……」

彼女の饒舌は何よりも雄弁に物語っている。
ハインのそれが何によるものなのか分からない。たぶん、痣だけが理由ではないだろう。

私に出来ることは聴くことと、そして並び歩くこと。それだけだ。

从 ゚∀从「ああ……俺は、自分勝手だからな」

205 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:53:15 ID:10yWY8Xc0
从 ゚∀从「さ、着いたぜ」

(゚、゚トソン「え……」

私は立ち止まって思わず辺りを見回した。そこは最寄り駅の風景では無かった。
ハインの話を聴くのに夢中になりすぎて全く気がついていなかった。
そこは、私の、アパートの前だったのだ。

从 ゚∀从「……さあて、走るか」

(゚、゚トソン「ハイン、どうして……」

从 ゚∀从「いやー、お前の好きそうな話をしたつもりだったけど、どうだった? そこそこ楽しめたか?」

(゚、゚トソン「……」

从 ゚∀从「やっぱこの痣、色々言われるんだろうなあ。もうちょっと化粧濃くしたら何とかならないかな」

ハインは自分勝手などではない、と思うのは私が彼女のことを理解していないからだろうか。
ただ、私が彼女へ抱く心情は、彼女があまりにも私のことを考えてくれているがための悲痛だった。
私にはそれをどう表現すべきかわからない。もしかしたらハインは私を私以上に理解しているのではとさえ思う。

206 名も無きAAのようです 2013/02/03(日) 21:54:16 ID:10yWY8Xc0
从 ゚∀从「それじゃ、行くわ。たまには電話でもしてこいよ」

(゚、゚トソン「しても、出ないじゃないですか……」

从 ゚∀从「……出るようにするよ、努力するって」

(゚、゚トソン「ええ……。ハイン」

(゚、゚トソン「その、お元気で」

从 ゚∀从「……ああ。お前こそな」

なぜ、私は二度と会えないかのような挨拶を交わしたのだろう。
去っていくハインの背中を眺めながら、私はやり場のない別れの思いを持て余している。
私は、彼女に不吉を予期しているのだろうか。あの、誰よりも溌溂としているハインに。

彼女の饒舌には憶えがあった。それは、私が時々発散しようとする言葉の洪水に酷似しているのだ。
しかし私は口にしない。その言葉さえも呑み込んで自分の中に溜め込むようにしている。
いったいそれはどうしてだろう? 私はまだ、自分を正確に表現する言葉を探し当てていないのだろうか。

そうやって何もかもを自分の内側に保持しているはずの自分が、
履歴書の自己PRすら満足に書き上げられないのはなぜだろうか。

私は、少し前に自分が描いた色つき水と透明なガラス瓶を思い返す。
そうやって自分を満たすことを私は快楽だと自認した。
しかし、自分の中に複数の色つき水を混ぜ合わせていたら、私の心はどどめ色になるのだろうか。

彼女は、ハインリッヒ高岡。
彼女に抱いた、或いは自分に抱いた不安が、消えない。



8.消えない 終わり




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